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創立50周年を迎えた株式会社花見台自動車、リスクをバネに自己を鍛錬して夢を形に今も続く顧客が求める提案商品の開発

ITV_2016年10月号表紙

月刊ITV 2016年10月号

発行:平成28年10月1日
発行所:(株)日新(HP)
執筆:大島春行・大西徳・伊藤慎介・井上元・岡雅夫・佐原輝夫・鈴木純子・中田信哉・西襄二・橋爪晃・宮代陽之
表紙・レイアウト:望月満
記事&編集:横路美亀雄・於久田幸雄

リスクをバネに自己を鍛錬して夢を形に今も続く顧客が求める提案商品の開発

創立50周年を迎えた株式会社花見台自動車

「企業は人なり」…企業経営の真髄としてよく耳にする言葉である。良い人材を集めて育成することが企業発展に繋がることは真実である。しかし、創業者が物づくりに夢を賭けている場合は少し事情が異なる。創業者自身が“人材”であり、経営を左右するからである。18世紀のヨーロッパでは馬車が人や荷物を運ぶ主な道具であったがフランスのニコラ・ジョセフ・キュニョーが蒸気で走る自動車を発明した。1769年の出来事なので、日本はまだ江戸時代である。

キュニョーは18世紀フランスの軍事技術者、つまりエンジニアである。キュニョーが自動車を発明することが出来た背景には、軍隊の技術者として当時の最先端の技術を吸収できたことが上げられている。しかし、エンジニアが財も後ろ盾もなくロマンだけを求めて物づくり会社を起業すると概ね失敗する。マーケッティングが伴わないからである。

車両運搬車“セフテーローダ”の開発に始まる花見台自動車は、今年50年の節目の年を迎えた。同社は創業者の能條健二氏がエンジニアであり、今もなお経営者として会社を引率する希有な存在である。今回は、創立50周年を迎えた株式会社花見台自動車を能條健二という人物を通して分析してみたい。

創立50周年を迎えた株式会社花見台自動車の能條健二社長...ザ・トラック

創立50周年を迎えた株式会社花見台自動車の能條健二社長

平成元年9月1日、開業時のいわき工場...ザ・トラック

平成元年9月1日、開業時のいわき工場

少年~青年期にリスクを負った能條社長

まずは人間形成、能條社長の生まれ育ちに遡ることから始めたい。

荷台をスライト傾斜させて、車両を楽々と乗降させることのできる“セフテーローダ”を開発した花見台自動車の能條健二社長が生まれたのは、横浜市保土ケ谷区(現在の下川井)である。

父(金作)は、能條社長が8歳の時にビルマに出征して39歳で戦死している。通信技術者であった父は、終戦間近の昭和19年に通信が途絶えたビルマに赴くが、戦況は悪化しており、通信機材もなく、何らの役目も果たせないまま食材を求めて移動中に行方不明になったという。終戦の昭和20年8月末に父からの最後の手紙が届いたが、日付は7月22日となっていたという。遺骨はまだ戻っていない。

母子家庭となった能條社長は中学を卒業したら社会に出る事を決意する。当時は“養成校”という制度があった。企業が中卒生を雇用して、高校と同程度の教育をさせる制度である。そこで能條社長は川崎の富士電機を受験するが不採用になってしまった。その理由を中学の恩師から「片親であること」と告げられて大きなショックを受ける。当時、片親の子供は不良化する傾向が見られたので敬遠したらしいのであるが、真面目に生きようとする能條社長には、社会に対する不信感が残った。

富士電機が不採用になった能條社長には、恩師の奨めもあって昭和28年、神奈川県立商工高等学校へ進学する。この県商工には初代校長(鈴木達治氏)が提唱した「名教自然」のモットーがある。「自分の人生は自分で切り拓け」という考え方に基づいた自覚自治、自由啓発を教育方針としているので商業、工業が実践的に学べる専門学科高校である。

元々、片親であることが理由で富士電機が不採用になった能條社長には、中学を卒業したら母親(ツル)を助力したい気持ちがあったのに、高校に進学した訳なので、他の子のように捻くれて悪いことをするような人間にはなるまいと心に誓っていた。そんな背景もあり高校では人一倍勉学に励むと同時に、社会に出たら直ぐに役立ちたいと自動車部に入部する。当時の日本は、やっとオートバイやオート三輪が走り始めた頃で、モータリゼーションにはほど遠い時代である。この自動車部では、エンジンを分解して修理するなどの実習を繰り返していたので、社会に出て自動車産業に係わるという意味では、能條社長の原点になったという。

この県商工で習得した技術は後の花見台自動車の原点になるが、3年生になったばかりの4月の実習で、フライス(工作機械)に巻き込まれて右手を大怪我するアクシデントに見舞われ、指の自由を失うことになる。学校側は授業中に生徒に怪我をさせてしまったので、就職は三菱自動車やいすゞ自動車など特別に大企業を斡旋してくれたという。

ところが大企業には“クレペリン検査”という性格テストがあった。

これは、ドイツの精神科医であるエミール・クレペリンが発見した作業曲線を元に、日本の内田勇三郎が開発したもので、ひと桁の足し算(3、4、5、6、7、8、9の組み合わせからなる)を5分の休憩をはさんで前半15分、後半15分の30分間行わせた上で、1分ごとの作業量の継時的な変化のパターンから性格や適性を診断するもの。

この検査で右手に障害がある能條社長は、途中で作業曲線が屈折してしまうので、不採用になってしまう。しかし、日本飛行機株式会社(本社・神奈川県横浜市金沢区)は学科試験はあったが、クレペリン検査は無かったので採用になった。能條社長、社会進出の第一歩である。

当時、日本飛行機は損傷した戦闘機の機体をオーバーホールする仕事を米軍から請け負っていたが、溶接やメッキ、板金など高度な技術を必要とする航空機の会社に採用になったのは、県商工で習得した技術があったからだという。

日本飛行機では、毎月職場を替わって新しい技術を身につけ、約1年間の実習を経て、修理の現場に配属になった。

航空機の修理は、作業手順が腕や指の使い方まで細かく指示されていて、場合によっては五体満足でないと熟せない作業もあることが分かって、作業日報をつける事務職に異動になる。県商工では寝る間も惜しんで物づくり技術を身につけた能條社長は、事務職は物足りなくて1年3ヶ月で日本飛行機を退職することになる。社会に出て初の挫折であるが、ここでも技術を習得したことは大きな自信になったという。

日本飛行機を退職したことを気遣った県商工の恩師である伊藤先生は、油圧シリンダーを専門に製作する南武鉄工(現在の株式会社南武)を能條社長に奨めた。現在、油圧シリンダーは特装車や建設機械に限らず広範囲に使用されているが、当時は油圧機器の草創期であったことから、油圧シリンダーをつくる会社は殆どなかった。南武鉄工にはあらゆる業界から注文が来ていたが、社員は油圧シリンダーがどのような装置に使用されているのか検証するため、あらゆる現場を訪問することになる。油圧シリンダーを使用した装置はその後あらゆる産業で発展することになるが、能條社長はその基礎を南武鉄工で身につける事になる。

逸話であるが、船のスクリューを製造する会社の要請で可変ピッチスクリューを手掛けた時のこと。スエーデンの技術を導入して製作したスクリューのシャフトが破損する事故が発生した。導入先のスエーデンでは海が荒れることはないので、スクリューがローリングやピッチングで空中に出ることは殆どないが、日本では珍しくない。船のスクリューが空中に出ると抵抗が小さくなるので、高速回転になるが、着水すると急に大きな抵抗を喰うので、シャフトに大きな負荷がかかって破損するのである。事情を知った能條社長は設計を見直して解決するが、このような経験をあらゆる分野で体験すると、油圧シリンダーのスペシャリストになるのである。

当時は大手企業も海外製品を模倣生産していた。日本は何故独自のアイディアで物づくりをしないのか、疑問が沸き始めたのもこの頃である。

県商工に入学から日本飛行機と南武鉄工の就職で合計10年を費やしているが、能條社長が物づくりの基礎と社会の仕組み、経営の基本を学んだのはこの時期である。

南武鉄工は、会社が経営不安に陥ったのを機会に退職、いよいよ花見台自動車の設立へと動くことになる。

昭和56年頃、横浜市旭区矢指町の旧事務所前...ザ・トラック

昭和56年頃、横浜市旭区矢指町の旧事務所前

昭和56年頃、横浜市旭区矢指町の旧工場前...ザ・トラック

昭和56年頃、横浜市旭区矢指町の旧工場前

昭和58年頃、いすゞニューパワーセフテーローダ...ザ・トラック

昭和58年頃、いすゞニューパワーセフテーローダ

第27回東京モーターショーに出展...ザ・トラック

第27回東京モーターショーに出展

セフテーローダクロスオーバー...ザ・トラック

セフテーローダクロスオーバー

“セフテーローダ”1号車の開発

能條社長はアイディアをデッサン化出来れば、物を作り上げるレベルには到達していたが、その為には資本も必要だし、工作機械も導入しなければならない。そこで、物づくりのロマンは一時棚上げして、昭和40年に自動車修理工場として立ち上げたのが花見台自動車である。この工場は知人から借り受けた狭い敷地であったが、地名の“花見台”から社名を命名している。時代が変遷してカタカナや英語名の会社が多くなっても変更する考えは無かった。その理由に「狭いながらも敷地を都合してくれた知人への恩と、“花見台”の言葉にも会社が発展するイメージがあって好ましく思っていた。」と語っている。

自動車修理の花見台自動車は、当初は自動車販売会社などの下請けに徹していた。既にモータリゼーションの兆しは出ていたが、新会社として進出すれば整備業界にライバルが増える事になるので歓迎されないかもしれない。しかし、整備業界を下請けとしてサポートする立場をとれば、受け取る修理費は一般よりも約3割下回るが、顧客開拓の必要はないし仕事も安定する。安い整備費は他社よりもより長時間働くことでカバーできると考えたのである。

予想通り、下請けに徹した花見台自動車には、同業他社が仕事を回してくれるので、大きな利益は出ないものの、経営に行き詰まる事はなかった。問題は整備車両の引取と納車である。この仕事は間接業務なので人手がかかっても顧客に費用を請求する訳にはいかない。日中、限られた人員で整備車両の引取と納車を熟すと、実際の整備業務は夜間から深夜に及ぶことにもなる。

そこで、一人でこの引取と納車が出来るように、前輪を吊り上げて運ぶレッカー車や車台に前輪を乗せて運ぶトレッカーと呼ばれる車両も開発されたが、高級な乗用車を運ぶ方法としては、ユーザーに歓迎されていなかった。

そこで、能條社長は自社で使用する車両として荷台をスライド傾斜させる車両運搬車を考案、中古車を改造して製作した。これが日本で最初に製作された荷台スライド傾斜型の車両運搬車である。同社は後に“セフテーローダ”と命名するが、今日では業界全体で年間生産台数が約3000台のビッグ市場に拡大するのである。

当初、自家用車として開発したスライド式車両運搬車は、同業者や自動車販売会社からも貸して欲しいという要望があり、好評であったという。もともと物づくりに夢を賭けてスタートした会社なので、能條社長がこの“セフテーローダ”を商品化したいと考えるのは当然の成り行きである。

しかし、実際に商品として売り出すと、殆ど売れない。当時、整備車両の引取や納車は代金を請求できないサービス業務になっており、稼ぎの無い業務に投資は出来ない、という理由である。能條社長は、“セフテーローダ”は輸送イメージも良いし、二人作業を一人にする事が出来るので、人件費や残業の面でも投資対効果があることを訴えたが、殆ど拡販には繋がらなかったという。

ちょうどこの頃、「近くの整備工場が売却に出ているので買わないか」という誘いが銀行筋からあった。能條社長はこの先も自動車整備業で経営を営むのであれば、願ってもない話しと受け止めたかも知れないが、物づくりに対する夢は捨てられなくて、この話しを丁重に断った。「あの時に売りに出た整備工場を買っていたら、暫くは整備に専念することになったので、車体やトレーラを製作する今の花見台自動車は無かったかも知れない。」と語っている。県商工、日本飛行機、南武鉄工で培った物づくりへの執念が勝っていた結果である。

整備工場の傍ら、車体工場を立ち上げたのはそれから間もなくの事で、隣接してコカコーラの大きな工場があった。

“セフテーローダ”のまとまった注文は意外なところから始まった。自動車に憧れる若者は運転免許を得る為にモータースクールに通うことになるが、素人の運転なので直ぐにクラッチが焼き付いて動かなくなってしまう。この故障車は、けん引することは出来ないので、荷台に載せる“セフテーローダ”が重宝されたのである。そして間もなく、整備業者や自動車ディーラー、中古車業界でも需要が出て、注目される事になるのである。

この当時、車体産業界は特装車の新明和工業(当時の通称は川西モータース)、極東開発工業、東急車輌製造(現東邦車輌)やクレーンのタダノ(当時は多田野鉄工)やユニックカーゴ系もパブコ(当時は加藤車体工業)、山田車体工業、日本フルハーフ、日本トレクス(当時は日本トレールモービル)など、大いに活性化の方向にあった。しかし、荷台スライド傾斜の“セフテーローダ”は全く無名の花見台自動車が開発したのである。

この“セフテーローダ”の開発について能條社長は次のように述べている。「当時の代表的トラックは平ボデー車だった。平ボデーはシャシの上に木材の縦根太を乗せ、その上に車体を支える横根太を乗せ、荷台を張り、木材を薄い鉄板で捲いたアオリが取り付けられていた。あの木製平ボデーでは、荷台をスライド傾斜させることは不可能だか、全てを鋼材で構成すれば可能になると考えていた。木製の車体メーカーでは発想が出なかったかも知れない。」

セフテーローダ”の製作では、既に鉄板の加工は身につけていたし、荷台をスライドさせる油圧シリンダーも多くの現場で経験を積んでいた。最大の難関となったのが、荷台をスライド傾斜させる為にはシャシフレームを切断しなければならない点であった。当時は車体架装の為にシャシを切断することは、道路運送車両法の車両保安基準で許可されないと一般的には解釈されていたようである。しかし、能條社長は県商工の自動車部でこの法律を熟読していたが、禁止事項はなかった。あくまでも、担当官の判断に委ねられていたのである。

そこで、神奈川県の陸運事務所に事情を説明して許可を求めたところ、最初は難色を示していたが、この車両が実現することで、大幅に安全性が向上することや自動車整備や販売会社の引取や納車業務が大幅に軽減する事などを辛抱強く説明したところ、担当官が理解を示し許可を得たのである。また、車両運搬車は積載物が荷台からはみ出す場合があるので荷台長を可能な限り長くしたい。そこで、走行する場合は後端の歩み板を垂直に立てることで、バン型と同じく、ホイルペースの3分の2までのオーバーハングを延長することも許可を得たのである。これらの法解釈は、花見台自動車に限らずその後の車体産業に大きく影響しているのであるが、その事実を知る人も最近は少なくなったという。

セフテーローダ Ⅱ...ザ・トラック

セフテーローダⅡ

セフテーローダ グライド Ⅲ...ザ・トラック

セフテーローダ グライド Ⅲ

苦境を会社更生法で乗り切った数少ない経営者

昭和47年、花見台自動車は“セフテーローダ”の受注が好調に推移して来た事から、自動車整備を閉鎖して車体架装事業に専念することになる。

1台積みの“セフテーローダ”は神奈川県内だけでなく、近隣からも注文を得て生産が追いつかない常態に陥る。その頃にタイミング良く声がかかったのが古河ユニックであった。車載用クレーンで全国に販売ネットワークを持つ古河ユニックは当初、同社が受注した車両運搬車の生産を花見台自動車に依頼して来たのであるが、既に生産が手一杯の常態なので、“セフテーローダ”の製造権を条件付きで古河ユニックに譲渡することで合意、スライド傾斜式車両運搬車は大手企業でも生産されることになり、市場は大きく拡大する。

しかし、能條社長の物づくりへの夢はまだ始まったばかりで、荷台スライド傾斜の技術は中型車から大型車へと拡大、産業車両運搬車としても活用されることになる。

昭和49年44月月には工場が手狭になった為、横浜市旭区矢指町に工場を建設するが、同社の事業は拡大の一途となり、昭和58年1月には横浜市が開発した金沢工業団地へ移転する。(現在の横浜支社)さらに平成元年9月には福島県いわき市好間工業団地に主力工場を建設して増産体制を確立する。

現在、花見台自動車が生産している車種はセフテーローダ一般積載、セフテーローダ車載専用、セフテーローダ重機建機運搬、ヒップリフタ、セフテーローダ・ダンプ、2台積み車載専用、トラクタ・トレーラ製品など多岐にわたり、特装車とトレーラの総合メーカーと言っても過言ではない。

しかし、同社は2009年3月30日経営が行き詰まって東京地裁に民事再生法を申請する事態に陥る。原因は合法的に開発したトレーラの型式認定が遅延したことにあったが、資金繰りにメドが立たなくなった結果の最終手段であった。

筆者も債権者の立場で同社の集会には出席したが、概ね再建を期待する声が多く聞かれたのは能條社長の人徳によるところが大きい。民事再生法の適用を受けた企業は、経営の全てが裁判所の管理下に置かれることになるが、同社の場合は能條社長が代表権を維持したまま再生計画が進められた。大幅なリストラや経費の節減も断行したが、献身的な自動車メーカーの支援もあり、その後も滞りなく事業を継続した。

そして2011年3月11日、東日本大震災が発生する。同社のあるいわき市は震災に加えて福島原子力発電所が崩壊するダブルパンチを受ける。能條社長は翌日から会社に泊まり込んで、復興の指揮に当たった。しかし、同社は震災による被害は被ったものの、放射能汚染は免れていた。

この3.11震災は大きな犠牲が伴ったが、リーマンショック以来低迷が続いていた産業車両にも復興需要が台頭する。更に、政権を奪回した安倍内閣が強力に経済再生を打ち出したことから、自動車産業界も需要が大きく回復することになる。

このような背景もあって花見台自動車は予想外のスピードで再生が実現した。民事再生法の適用を受けた企業が、代表者の変更なしに再建するケースは極めて少ないという。この点について、能條社長は次のように述べている。

「民事再生法を申請した事で迷惑をお掛けした会社も沢山あるし、その後の支援にも深く感謝している。しかし、あの時点で民事再生法を申請していなければ、今日の花見台自動車は無かったと思う。ギリギリの選択であったけれども、最善の選択であり、再建する自信もあった。」

これが能條社長のエンジニアであると同時に経営者としての一面でもある。

火力発電所で使用する石炭を運搬する短尺の大容量トレーラ(HDD210)...ザ・トラック

火力発電所で使用する石炭を運搬する短尺の大容量トレーラ(HDD210)

最新の開発は大容積の石炭用ダンプトレーラ

能條社長はどのような状況下にあっても開発の手を緩めたことはない。

最近、一台の新たなダンプトレーラが完成した。火力発電所で使用する石炭運搬車である。

昨年8月、東京電力株式会社、三菱重工業株式会社、三菱商事株式会社、三菱電機株式会社、及び常磐共同火力株式会社の5社は、東京電力が検討を進めている福島復興に向けた世界最新鋭の石炭火力発電所プロジェクトの推進に関する基本合意を発表した。このプロジェクトは、福島県の経済再生を後押しする産業基盤や雇用機会を創出するとともに、次世代のクリーンコールテクノロジーである石炭ガス化複合発電(IGCC)技術により、この分野で世界をけん引していくことを目指している。具体的には、東京電力広野火力発電所(双葉郡)と常磐共同火力勿なこそ来発電所(いわき市)に、それぞれ約54万kWのIGCCプラントを1基ずつ建設、2020年代初頭の運転開始・運用を目指している。

能條社長が開発したのは、この火力発電所の燃料となる石炭運搬車である。

連結全長は11,1800㎜と単車トラック以下と短く単車ダンプの約2倍の積載(21トン)が可能で、トレーラは2軸小径タイヤを採用し30?の大容量ベッセル(40?も可能)を搭載している。

この石炭運搬用トレーラの開発には、日本の道路事情が深く考察されている。火力発電所で使用する石炭の量は膨大にのぼる筈で、これを通常のダンプトラックで運ぶと相当な台数が必要となり、一般交通にも影響が及び兼ねない。そこで、合法的に一度に大量の石炭を運ぶには、低床化によってベッセルを大きくして石炭を高く積む以外にないと考えたのである。

実は、この石炭運搬用トレーラは発注を得て製作したものではない。花見台自動車の提案車両として開発したものである。勿論、大きな先行投資が必要で、リスクも伴う。

花見台自動車はこれまでに実に多くの車両を世に送り出しているが、車両の開発は常に提案車両の製作から始まる。“絵に描いた餅”では顧客に理解を得ることは難しいと考えているのである。

この車体産業が黎明期の頃、特装車の開発に夢を託した先人は沢山いた。

大正8年に日本初の天秤式ダンプカーの開発に着手した犬塚製作所(当時は犬塚特殊自動車工場)の操業者犬塚伊三郎や大正5年に独自の技術で、日本で4番目の国産車“アロー号”を造った矢野特殊自動車の創業者矢野倖一もその一人である。

最近、車体産業でよく耳にする言葉が「開発の限界」である。開発をし尽くしたことによる新開発商品の限界を意味していると思われるが、能條社長にはその限界はないのではないかと思う。何故なら時代が変わり、法律が変われば市場が求めるニーズも変化するからである。その要求に応えるのであれば開発のターゲットは無限となるからである。

80歳を迎えた能條社長はこれまでの開発人生を振り返って次のように述べている。

「父親が終戦間近に戦死して8歳で母子家庭になったことや、県商工で工作機械に手を巻き込まれて指が動かなくなるハンディを負ったことも、今になって振り返れば、それを乗り越えようとする意思がバネとなって力になっていたように思う。片親である事を理由に不採用にした富士電機も、民事再生法の申請にまで追い詰められた要因も、試練と受け止めれば感謝の気持ちすら湧いてくる。私の人生は“開発”に尽きるが、その基礎は県商工入学から日本飛行機、南武鉄工の10年間に出来上がっていたように思う。常に問題意識をもって世の中を見ていれば何が求められているか、開発の目標は見えてくる。」

時代の変遷が著しい現代、エンジニアを志す創業者が終生経営者であり続けるケースは極めて希である。その意味で花見台自動車は能條社長そのものと言っても過言では無い。

セフテーローダ マーク Ⅲ 車両総重量25tクラスで最大積載量13tクラスのスライドボディを実現させる『花見台軽量荷台技術』を採用する、セフテーローダ マーク Ⅲ。...ザ・トラック

セフテーローダ マークⅢ 車両総重量25tクラスで最大積載量13tクラスのスライドボディを実現させる『花見台軽量荷台技術』を採用する、セフテーローダ マーク Ⅲ。

セフテーローダ ヒップリフタ Lw車両総重量25tクラスで最大積載量14tクラスの軽量ボディを実現させる『花見台軽量荷台技術』を採用した、セフテーローダヒップリフタ Lw。...ザ・トラック

セフテーローダ ヒップリフタ Lw車両総重量25tクラスで最大積載量14tクラスの軽量ボディを実現させる『花見台軽量荷台技術』を採用した、セフテーローダ ヒップリフタ Lw。

連結全長 約11.5m以内も可能★3軸ISOフル(30.48t)HCT303リーフサスペンション...ザ・トラック

連結全長 約11.5m以内も可能★3軸ISOフル(30.48t)HCT303リーフサスペンション

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